毎年4月17日と10月17日は日光東照宮の例大祭が行われます。
その前日の16日には流鏑馬が奉納されるので行ってきました。
日光の紅葉時期でもあり混んでいるかなと心配でしたが意外にスムーズに行け、駐車場もまだ余裕がありました。
駐車場から東照宮表参道に向かう途中流鏑馬の関係者達が最後の準備・打ち合わせを行っていた。
表参道はまだ始まるまで1時間以上あるというのに人垣が出来ていて、さてどこから見ようか?写真を撮ろうか?幸い3番目の的を過ぎた辺りに隙間が!ここに決めた。
流鏑馬に先立ち和太鼓の奉納があり、いよいよ流鏑馬が始まる。
まずは射手の入場。馬に乗った射手と審判奉行その他皆古式の衣装を着て馬場を1周する。流鏑馬開始の言葉を受け射手はスタート地点へ。
馬場も綺麗に均されたところでスタート地点から大きな白い扇が振られます。ゴール地点では赤い扇が振られると「もういいよぉ〜」と言うことなのでしょう。
射手がスタートします。速い!馬はほぼ全速力で走り、テレビなどで見る流鏑馬より速く感じます。200から300bの間に設けられた3つの的を射手が次々と射抜いてゆきます。
上手く射抜けば観客から大きな拍手が、的を外すと「あぁ〜あ」といったどよめきが!
射手の服装は立烏帽子、綾藺笠を被り、鎧直垂に射小手を着け、行騰・太刀を履き、箙を負い弓矢を持っています。
この服装はあげ装束ともいわれ鎌倉時代の武士の狩装束でこの衣装で第1団が行われ、この後の団は江戸時代の流鏑馬の服装になります。鎌倉時代のものが正装、江戸時代のものが略装と言った位置づけでしょうか?
これには流鏑馬が鎌倉時代に隆盛を誇り、その後衰退したが徳川8代将軍吉宗の時代に再興されて今日に至っているという歴史的背景もあるようです。
約30分くらいの時間に13名の射手が駆け抜けてゆきました。迫力満点でまた歴史を感じさせます。
残念だったのは予想以上の速さで思ったような写真が撮れなかったこと。これは来年春の流鏑馬に再挑戦ですね。
流鏑馬について
流鏑馬は騎射の一種で、走る馬上から鏑矢を放って的を射止める馬上武術です。歴史上、流鏑馬・笠懸・犬追者の各馬上武術が「馬上三物(式)」と呼ばれています。
「流鏑馬」の文字が見られる最も古い記録は約900年前、御冷泉天皇時代(1045〜1068)、藤原明衡(儒者)が書いた「新猿楽記」(随筆)です。
当時(平安時代・809〜1192)朝廷の行事の際、公卿の催しとして近衛や衛兵の武者が射手となり盛んに行われました。 公卿の勢力が衰え武家が実権を握るとともに、流鏑馬は武術として発展しました。
この武家の流鏑馬については、栄長元年(1096)「中右記」(中御門右大臣藤原宗忠の日記)に書かれたものが最も古い記録とされています。
又、平治物語(鎌倉時代の軍記物語)に出てくる平清盛(1118〜1181)による伏見稲荷神社の流鏑馬が最古であるとの記録もあります。
全盛を極めたのは、源頼朝公が開いた鎌倉幕府時代に入り、武家の儀式となって以降の事です。 頼朝公は、平家の滅亡は一族が文弱に流れた事が原因であるとし、源氏一族を強豪な武人に仕立てるため、流鏑馬・笠懸・犬追物の三物を督励したとつたえられています。 頼朝公は鎌倉・鶴岡八幡宮に流鏑馬を奉納しました。
このように鎌倉時代に隆盛を極めた流鏑馬でしたが、時代が流れて室町時代(1392〜1573)にはすっかり衰退しました。
徳川時代に入って廃絶同様になっていた流鏑馬を復興させたのが、徳川八大将軍吉宗公(1684〜1751)で、そのため同公は、「流鏑馬中興の祖」とされています。 以来、徳川家の大事には度々執行されました。
日光東照宮宮司 稲葉 久雄
「秋季大祭・流鏑馬」パンフレットより抜粋
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